【2018年6月の雑感②】
▲散歩中に団地内の道路にうずくまっていた子雀。「親にはぐれた子雀…」演歌「番場の忠太郎」のセリフが思い起こされます。この歌は島津亜矢さんより天童よしみさんの方が少しいいですね。
反省と後悔
■第29回の抗がん剤投与を6月12日(火)に行ってきました。血液検査の結果はほとんど異常なしでしたが、月1回の腫瘍マーカーの検査値は上昇していました。癌が進行しているのかもしれません。来週18日(月)にCT検査を行います。その結果によって今後の治療方針が決まります。
●私の場合は癌より末梢神経障害という副作用の方が自覚症状は強く、投薬後には苦しい生活が待っています。今週も木曜日から食欲不振と全身の倦怠感におそわれ、昨日金曜日は朝バナナ、昼ゼリー、夜味噌汁のみという食事でした。しかも終日横になっているという状態です。ですが今日土曜日は食欲が戻り朝食を普段通りにいただきました。
●今もせんべいをかじりながら本文を書き始めました。これで10日ほど少し楽に暮らせるでしょう。ですが、下半身の痺れによる転倒には気を付けなければなりません。この5日間の間に自宅内で2回も転倒しました。いずれも布団の上やふすまに助けられ大事に至りませんでした。
●化学療法室の看護師さんからも「鶴崎さんの副作用は他の人に比べてだいぶひどいようですから気を付けてください」と言われています。こればっかしは私にはどうしようもなく『反省することも後悔することもありません』。歩行困難にならないように主治医の先生と相談しながら気を付けて過ごしたいと思います。
■抗がん剤治療に関しては反省も後悔もなしと書きましたが、実は最近散歩中に「後悔」する出来事に出会いました。それは道端に動けなくなった子雀に出会ったことなんです。
●先月のことだと記憶しています。毎朝の散歩帰りのことです。午前7時ころでしょうか、隣の団地を通り抜けようと歩いていると、道端に小鳥がいるじゃないですか。近づいてみると子雀がうずくまっていました。「どうしたんだ、親から離れ離れになったのかい」とつぶやきましたが勿論返事は有りません。
●近くに巣があるかと見渡しましたが、もともと雀の巣など観たことが無いので途方にくれました。子雀はピクリとも動きません。でも生きていました。とりあえず珍しいので写真に撮ろうといったん自宅に帰りました。
●すぐ戻って写真を撮っていると中年の女性が近づいてきて「どうしたんですか?」「子雀が親からはぐれて動けないようなんですよ」と答えると「まあかわいそう、助けてあげてください」と言われました。「いやちょっと鳥は飼ったことが無いので…」と言葉を濁すと、「上の動物病院は9時からかしら」と言っていました。
●彼女が助けてくれるのかと思いきや、「病院へ連れて行ってあげてください」とか言われるので、「いやあ…」と言葉を濁すと今度は同団地の住民の男性が現れたのでその女性はそちらの方に矛先を向けて相談を投げかけていました。
●その隙に私は子雀に「ごめんな」と心の中でつぶやいてその場を外れ帰りました。途中に野良猫やカラスが居るのに気づきました。これはほっておくとやられるなと思いながらも後戻りしませんでした。
●午前10時ごろに買い物散歩に行くので同じ道を通ってみました。そこには子雀のすがたはありません。しばらくその場に立ち尽くしました。彼女が何とか救ってくれたのかしら、いや野良猫かカラスの餌食になったのではないかと思いを巡らしながら立ち去りました。
●それからずっとこの出来事が頭から離れません。『私は卑怯者なのか、情に薄い男なのか』と後悔しています。ですが私には助ける気がなかったと自覚しています。それはあとあとまで面倒を見る術がなかったと思えるからです。
●ですが、なぜ子雀は親からはぐれて道端にいたのだろう。それをなぜ私に発見させたのだろう。天の采配か?この子雀を助けたなら私の癌は寛解したのだろうか、助けなかったから予定通りの寿命か?などと後悔の念はマイナス思考を生み出します。
●後悔は感情の方が優先されますね。反省は理性的に行われるものです。反省は二度と同じ過ちを犯さないように行うものですが、後悔はなぜ自分は失敗したのか、助けられなかったのかという自分の内部にのみ目が向けられ、自分の感情を納得させるために行われることが多く、次の機会へのポジティブな対策行動が摂られることが少ないように思います。
■『反省すれども後悔せず』をモットーの一つとする私にはこの子雀放置事案は反省と後悔について考える苦い体験でした。おそらく天に召されたであろう子雀の冥福を祈りながら、「5歳女児の虐待事件」に哀しみと憤りを覚える私でした。6月17日(日)<完>
- 登録日時
- 2018/06/17(日) 10:36