★ジュリアス・ンジャウとの出会い
名古屋駅の待ち合わせ場所に行くと、彼が先に待っていてくれた。長身でがたいが大きいせいか、ラフな出で立ちがとても格好よく決まっている。「カリブ!カリブ!」(スワヒリ語で「ようこそ」)と笑顔で出迎えてくれた。会うのは3年ぶりであったが、初めて出会った頃と同じ持ち前の気さくさでこちらの緊張を解いてくれる。
ジュリアス・ンジャウと初めて出会ったのは、2004年に大阪府立現代美術センターで開かれた個展に何気なく出向いたときだった。個展のテーマは「ウィングス・オブ・キリマンジャロ」。キリマンジャロの翼。絵画にはあまり詳しくなかったのだが、カラフルで迫力があり、そしてどこか観る人を包み込むような寛大さをもっている絵に思わず見惚れてしまった。
絵に見惚れていると、展示会場にいた一人の男性が「気に入った絵はあるかい?」と、気さくに話しかけてきてくれた。その穏やかな風貌で、すぐに絵を描いた本人だと気づいた。ジュリアス・ンジャウというアーティストは、固まった心を溶かすような、不思議な温度の持ち主だと思った。彼の作品に漂うあたたかさは、そのバランスのとれた温度のせいなのだろうか。
名古屋駅から車で30分ほど走ると、その賑やかな都心の雰囲気とは裏腹の、のどかな住宅地がみえてくる。名古屋の東の玄関口とよばれる名東区、豊富な自然に囲まれたその住宅地のなかに、最近構えたという彼のアトリエがある。早速、そのアトリエを見せてもらうことになった。入り口のドアを開けると、周囲の静かな空気を忘れてしまうほどの別世界が広がっていた。ルイ・アームストロングの心地よいブルースが大音量で流れている。中に入ると、絵画だけではなく、木彫りの彫刻や仮面、家族の写真などで部屋を埋め尽くしており、壁には絵が入った額や賞状の数々が飾られてあった。
この混沌としたパラダイスのような空間から、いったいどうやってあのようなあたたかく寛大な絵が生み出されるというのか。それとも、この混沌とした空間だからこそ生み出されたものなのかもしれないと、ふと思った。
★輝く山に“アフリカのピカソ”が誕生
ンジャウの現在の活動拠点は日本とオランダであるが、タンザニアからケニア、オランダへと、これまでに数回の移住を経験している。生まれは1961年、タンザニア連邦共和国モシのマラング村、チャガ族の出身。母語はチャガ語とタンザニア公用語であるスワヒリ語である。マラング村はアフリカ第一の高山であるキリマンジャロ山(標高5895m)のふもとに位置する。また、農場に囲まれた高山地帯であり、キャッサバやトウモロコシ、バナナやコーヒーなどが栽培されている。なかでもバナナが豊富で昔からお酒造りにも利用されてきており、バナナ・ビールはチャガの伝統酒として知られている。お酒はチャガの間では欠かせないものであり、彼の絵のなかにも「お酒を飲む」と題するものが数多く存在する。
そんな大自然に囲まれた土地で育ったンジャウであるが、人生の転機となる出来事が起こった。1972年、サッカー少年だった彼は、練習中の事故で足を痛め、2年間の入院生活を送ることになった。元々絵を描くことが好きだったというンジャウは、入院中にさまざまな絵を描き、床にまで落書きをしてはしばしば怒られたという。その頃は、人や動物、モンスター、景色、周りの患者さんたちの絵を描いて遊んでいたようだ。そんな中、彼の絵の才能に気づいたのが、そのとき病院に勤めていたフィンランド人医師であった。「事故は不運だったけど、事故に合わなかったら絵描きにはなっていなかった。あの時の事故で僕の人生が変わったんだ」。
眠っていた原石が輝きはじめた瞬間であった。いまや“アフリカのピカソ”とよばれるほどになったその原石は、輝く山、キリマンジャロにふさわしい光を放ったのである。
1983年、彼の初めての展覧会がフィンランドのヘルシンキで開催された。その後、故郷のタンザニアはいうまでもなく、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、スペイン、ケニア、日本などで展覧会を開催し、彼は瞬く間に世界に羽ばたくアーティストとなった。
- 登録日時
- 2008/08/16(土) 17:00