【2015年1月の雑感②】
阪神・淡路大震災から20年目の朝
■今朝は午前6時15分に目が覚めました。20年前の朝は午前5時46分にあの大震災が発生しています。多くの方が神戸市中央区の公園他にて震災で亡くなった方々の追悼の儀式に出席されたことと思います。
●遅ればせながらご冥福をお祈り致しました。あの大震災に対する私の思いは5年前の2010年1月の本欄で書きました。カリブ海の小国ハイチの大震災があった時です。
●当時のテレビの大震災特集を録画したものがありますが、2度と観たことがありません。どこかであの試練はもう経験したくないという思いがあります。当時、会社で頑張ってくれた部下の皆さん、応援して下さった取引先の方々、ご縁のあったお客様や知人の方々の励ましには今も感謝はしています。
●ですが自分自身は、あの非常時、その後の8年間を振り返ると無念とふがいなさを感じるのです。復興に向けて決して「よくやった」と自分を誉めることができません。
●具体的には書きませんが、生き残った命をポジティブに活用しえたとは思えません。心に負った傷が癒えぬまま瘡蓋で閉じたままさまよっていたように思えます。
●そして8年後には勤めていた会社の民事再生法申請に遭遇します。人生2度目の(正確には3度目ですが…)試練を迎えたのです。一所懸命に努力はしましたが、未来の無い8か月でした。ここでも会社の復興は後輩に託して退社することになりました。
●私にとって大震災からの10年近くは試練が続き、その後の10年は凪の時代だったようです。コンサルタントになって「小さな貢献」はできたように思いますが、反省することは日々あります。
●思うに「試練を乗り越えると人を大きくする」なんて自分には当てはまらないし、そういう格言を他人に言おうとも思いません。そもそも試練かどうかは本人の認識ですから、そうは思わずに生き抜く人だっているわけです。
●生きるということそのものがことの大小はあれ、試練=課題を解決して乗り越えていくことだと思います。ただ生きる目的を明確に持って生きているか、向こうからやってくる試練=課題を乗り越えて生き抜くことなのかの違いはありますが。
●自分の経験からすれば、前者であるほうが充実した人生が送れるような気がします。私の場合は後者ですから、生き抜いてきたという実感はあっても充実感に欠けるという思いが消えないからです。
さてこれからどうするか(笑)
■今日は夕方5時46分から兵庫芸術文化センターで開演される定期演奏会に出かけます。佐渡裕芸術監督指揮のマーラー交響曲第2番「復活」です。佐渡さんの記事は今朝の朝日新聞にも出ていました。
●1995年、震災から10年後に兵庫県の復興のシンボルとして建設された当センターの芸術監督に就任されて10年、世界を舞台に活躍される指揮者になられた佐渡さんの渾身の指揮に期待しています。
●この文章を書きながらCDでズービン・メータ指揮ウィーン・フィルの「復活」を聴いていました。約80分の大曲ですが聴き終るまでに本文は書けませんでした。目標にしていたのですが…、20分の超過です。
●今日は劇場で再び大震災で亡くなられた方々のご冥福を祈ります。そして今日まで生き抜いてきた自分の命を大事に、日々小さな貢献ができるように頑張ります。<完>
- 登録日時
- 2015/01/17(土) 11:52