▲芝桜、実物を見たことがありません。実物の方はもっと美しいでしょうね。
【2015年5月の雑感①】
生意気と失礼は違う
■テレビ朝日のバラエティ番組で毎週月曜日のゴールデンタイムに放映されている「しくじり先生大反省」というのがあります。もともと深夜の時間帯に放映されていたものが先月からゴールデンタイム(午後8時)に移動しました。
●たまたまその第一回の特別番組を観ました。確か4人の先生役がいたのですが、3人観ました。そのうち何といっても最初の堀江貴文(名前はたかふみでした)氏のしくじり講義がダントツに面白かったですね。
●バラエティ番組ですから面白おかしく演出されているのですが、内容はとてもまじめで、我々の人生にも役立つようなものでした。ご覧になった方も沢山おられると思いますが、私が1つだけひっかかった「ホリエモン氏」の教訓がありました。
●今回はそれを取り上げて私の思考体験をお伝えします。その教訓とはタイトルにある『生意気と失礼は違う』というものです。
●堀江氏はこの教訓では「生意気と失礼は違う」「失礼な態度はいけないが生意気であることを忘れるな」と教えています。私はこれを聴いたときに「ん?」という気持ちになりました。
●他の教訓には「なるほど」「そうだね」「流石いいこと言うね」と、同感の意とやや上から目線で「そのとおり、俺もそう思う」などと思って観ていました。
ですがなぜこの「生意気と失礼は違う」にひっかかったのでしょう。それをあきらかにするために本文を書いています。
●すぐに思い浮かんだのは堀江氏の過去のテレビ番組での討論会のシーンです。何年前かは忘れましたが、当時堀江氏は飛ぶ鳥を落とす勢いで、野球界に進出しようとしていた時だと思います。
●自分には成算があるあるという主張は面白かったのですが、何人かの出演者のうちあの関西のテレビ番組「そこまで言って委員会」に出ておられた故・三宅久之氏が堀江氏の主張には明快な反論ができていなかったのですが、ノーネクタイのTシャツ姿で出てきた堀江氏の態度を叱りつけていたのを思い出しました。
●これには堀江氏も明快に反論できませんでした。他の出演者はネクタイ、スーツに革靴というビジネス界では普通のスタイルです。そういう人々と議論して自分を通そうとすると議論の内容以外のところで付け込まれないようにしないといけませんね。
●私はこの時の堀江氏の態度が失礼にあたると思います。主張されていることは結果的には、旧来の勢力の「既得権益を守ること」「変化を好まないこと」「権力を保持すること」など本来の野球界の目的の実現に努力することとは関係のないことを打破しよういうものですが、それ以前に相手をなめてかかっている(尊敬の念が全くない)ので反発を招くのです。
●自分のやりたいことを実現するには、既存勢力の考え方を打破する内容の生意気さ(実は斬新なアイデアとか革新的な方策)は必要です。ですがそれを実現するには、プロセスにおける「失礼」は致命的です。
●堀江氏はそのことを教訓として言っておられたのでしょう。ですが私は、失礼はいけないが生意気であれというのには、ちょっと注釈が必要だと思うんですね。このままでは「生意気」で失敗することもあるからです。
●失礼は人間関係を悪くすることはわかりますね。ではどういう場合が失礼にあたるかはネット情報を掲げておきますので具体例として参考にしてください。
大事なのは本人が気づかずに失礼なことをしている場合があるということです。
●私なんかもいくつになっても気づかず「失礼なこと」をしでかしていることがあります。その事例はあげませんが、要は相手によって「失礼だと思われる」ことが違う場合があります。
■http://www.excite.co.jp/News/laurier/howto/E1402978939134.html
http://news.ameba.jp/20140625-64/
●さて「生意気」ですが、この言葉の意味は語源由来辞典では「それだけの存在でもないのに背伸びして偉ぶること」とあります。意気は意気揚々や意気込みなどに使われるように「やる気」や「心構え」のことです。以下語源由来辞典では
●「生」は「生煮え」「生乾き」というように、中途半端な状態や十分に熟していない状態を表す接頭語でここでは「年齢」や「経験」などにかかっている。
●「生意気」はその本人ではなく不快に感じる側の言葉なので、心構えだけで実が伴わない未熟なものに対して、差し出がましいと思う気持ちを表したものである。
●この説明で重要なのは、『不快に感じる側の言葉』であるということです。堀江氏は「生意気であれ」とけしかけていますが、その心意気は尊重するとして、相手にどのように受け止められるか、そのことが自分の目的、目標を達成するのに支障がないかをチェックする心の働きが必要だと思うんですね。
●「生意気」な態度や言説も目的、目標に対する手段の位置づけです。仕事人にとって重要なのは自分が目指す目的、目標を達成することです。そのプロセスで「生意気さ」で人間関係に齟齬をきたしては意味がありません。
●堀江氏の教訓に少し違和感を持ったのは、実社会では「生意気」と共に「謙虚」であることが大事だと思うからです。これを状況や相手によって反応を見ながら行うべきだと考えました。
●ごひいきのアメリカTVドラマ「ブレイキング・バッド」を2回目のレンタルをして観ていたら、第1話で主人公ウォルター・ホワイトの50歳の誕生日のシーンがありました。(この長いドラマは彼が52歳になるまでの2年間を描いたものです)
●印象に残ったのが、16歳になる息子のジュニア(そう呼ばれている)が朝食の食卓で父親に「誕生日おめでとう、年老いた感想は?」と尋ねるシーンがあります。それにたいしてウォルターは少し嬉しそうな表情を浮かべながらさりげなく「生意気になったな」と答えます。
●この会話での父親の息子に対する心情は「父親を冷やかす大人になったのか」という、愛情のこもったものです。生意気もこういうシーンでの使い方は受け手側に「愛い奴」という気持ちを引き起こしています。決して「なんだこの野郎」とは思っていません。
●生きていく術として、どういう場合が「失礼」にあたるか、「生意気」は状況と人によって良い場合と拙い場合があるということ。いずれも相手によって自分が評価されるのだということを知っておく必要があります。
●さらに大事なのは自分の人生における目的、目標を達成することです。そのための手段にあたることは先達の教訓と言っても、無自覚に信じ込まないで自分で考える習慣を身に着けることです。
●大相撲五月場所が始まりました。場所前のNHKテレビの特集で横綱白鵬が相撲に勝つ極意は「自分の型を創ること、そして型にとらわれないこと」と言っていました。手段に関する教訓はこの方が適していると思います。<完>
- 登録日時
- 2015/05/13(水) 15:53