▲紅葉も色づきが濃くなり秋が深まっています。落葉も多くなりまもなく葉の無い木になります。豊臣家の没落に重なります。後継者を育てられない一族、会社は存続しません。勿論体制、制度を確立することも重要です。それにしても徳川幕府はすごいですね。
【2016年11月の今月読んだ本】
司馬遼太郎『淀君とその子』
■NHK大河ドラマ「真田丸」がクライマックスを迎え面白くなってきましたね。めずらしく今年は毎週欠かさず見ました。歴史ドラマはおおかた結果を知っているので、どのような解釈でプロセスを見せてくれるのかに関心があります。
●三谷幸喜さんの脚本は期待にたがわず大変面白い展開です。シリアスなお話の中にコミカルなトピックスがちりばめられており、「なんだマンガじゃないか」と突っ込みを入れながらも楽しく観ています。
●話は大詰めの大阪冬の陣から最後の夏の陣を迎えようとしています。結論は分かっているのですが、横綱(徳川方=家康)対前頭の下位(豊臣方=淀君&秀頼)の戦いになぜ大坂方は家康の挑発に乗ったのかと残念な思いで観ています。
●真田幸村(信繁)をはじめとする五武将の奮戦ぶりが唯一の見どころですが、幹部の無能ぶりによる戦略ミスと織田有楽斎(井上順さんがはまり役)の内通にやんぬるかなという気持ちです。(やんぬるかの意味は以下のURLをクリックしてください)
http://blog.q-q.jp/201109/article_1.html
●井上順さんはネットのインタビューで、織田有楽斎は豊臣と徳川の架け橋になろうとしていたのだと代弁しておられますが、三谷さんはそのようには描いておられないでしょう。彼は自分の保身のために動いたのだと思います。
●現に彼とその息子は大坂の陣以降も徳川幕府の元、1万石の大名となりその一族は明治時代まで続いたそうです。
■ちょっと気になって書棚にある司馬遼太郎短編全集の中から表題の「淀君とその子」という短編(中編かもしれません)を読んでみました。なぜ淀君は無謀な戦を決断したのだろうかという疑問の答えを確かめたかったからです。
●この小説は昭和42年の作品ですから司馬さん44歳。司馬さんの小説が非常に面白かったころの作品です。前年に「竜馬がゆく」「国盗り物語」を刊行。翌年には「坂の上の雲」の連載を開始されています。
●「豊臣家の人々」第9話として書かれました。主人公は淀君です。彼女は近江の国の「浅井長政」と信長の妹「お市の方」の長女として生まれました。幼名は「茶々」7歳まで現滋賀県の近江小谷城で過ごしています。
●4歳から7歳までの3年2か月は織田信長の命を受けた木下藤吉郎に攻められ銃声の下で暮らしました。乳母は大河ドラマ真田丸でも活躍の(笑)大蔵卿の局です。
●小谷城が落城した後、お市の方は3人の娘を連れて尾張清州城に保護されます。その後お市の方が柴田勝家に嫁いだため2人の妹たちと越前(福井県)北の庄城に移り住みます。(この辺の話は数年前の大河ドラマ「江(ごう)」で詳しく描かれていましたね。
●この間に織田信長は明智光秀の謀反に斃れてしまい、その後は羽柴筑前守が清須会議を経て柴田勝家と抗争になります。(三谷幸喜さんの小説清須会議も映画もなかなか面白かったですね。三谷さんは室内劇のほうが得意なんじゃないかと思いました)
●この時も柴田勝家は賤ヶ岳の戦いなどに敗れ、北の庄城に逃げ帰りますがついには落城の憂き目にあいます。この時の攻め手も後の秀吉です。小谷城落城から10年、茶々は17歳になっていました。
●大人になった茶々を見て秀吉は下半身に疼きを覚えます。(笑)秀吉はお市の方にあこがれていたと言われていますが高根の花でした。しかしその娘は自分の庇護下にいます。無類の女好きの秀吉が疼いたのもわかります。外見が好みだったのでしょう。
●3年後、茶々が20歳になった時に秀吉は茶々を側室にします。その間に反秀吉だった大蔵卿の局を篭絡してしまいます。息子、大野治長、治房兄弟も家来に召し抱えています。
●大蔵卿の局の助力も得て秀吉は茶々を側室にするとその肉体的な魅力の虜になります。竹内結子さんよりはやや太めだったのでしょうが美人には変わりなかったようです。司馬さんは茶々のあそこが良かった(笑)と表現されています。
司馬さんも壮年期ですからね。分かる気がします。
●秀吉は初夜の夜、ことが終わった後に茶々に城を贈ると言っています。翌日秀長に命じて淀城を着工させます。およそ5か月で完成したそうです。秀吉は茶々を移り住ませて、寧々に気兼ねなく逢瀬を楽しんだことでしょう。この城に住んだことから「淀君」とよばれるようになったそうです。
●1593年、淀君27歳の時に2番目の子(最初の子、鶴丸は死んでしまった)秀頼を生みます。この時秀吉56歳。あと6年の寿命ですね。秀頼については秀吉の子ではないのではという俗説があります。
●歴史小説作家の加藤廣さんは小説「秀吉の枷」(文春文庫上・中・下)で秀頼は淀君が大阪城中に呼んだ役者の子であると詳しく述べておられます。秀吉もそのことは知っていたと。どうでしょうかね(笑)他には大野治長の子であるという説もありますが。三谷さんはこれらを無視していますね。
●秀頼が19歳の時に徳川家康と二条城で面会しています。外見は中川大志君演ずる秀頼の様に美丈夫だったようです。(ドラマ「家政婦のミタ」に長男役で出ていた中川君と次男役の浦上君が真田大助を演じています)祖父の浅井長政の血が出ていたのかもしれません。
●このころには秀頼は側室に二男一女を生ませていたそうです。妻の千姫との間には子は為しませんでした。肉体的には立派な大人だったのでしょうが、いかんせん城内で女性ばかりに囲まれて育ったため、武将としての育成は無かったようです。(一女は戦後尼として生き残ります)
●秀頼の育て方は母親の淀君の意向でしょう。典型的な過保護、過度な母子一体感で育てたのでしょう。司馬さんはこの小説の最後の方で淀君についてなるほどと思わせる見解を述べておられます。
●冬の陣のあと家康は苦戦したため講和を持ち掛けます。全て策略ですが、その条件の中に淀君の江戸への人質というのがありましたね。淀君は拒否しますが司馬さんは人質とは家康の側室になることだと思い込んでいたと言います。
●以下本文より、「自己の肉体をとおしてしか物事の思考ができず、ついついそういう激語になったのであろう。ゆらい、淀殿には政治という冷静な心気と犀利なこころくばりの必要な思考ができず、またかつてそれを志したこともない。ただ運命が彼女をしてその思考の場に立たせているだけのことであり、彼女はそのなかでありあわせの情念のままひたすらふるまっていたにすぎない。」
●なるほどと思いました。また夏の陣を迎える時に真田幸村らは秀頼の出陣を促しますが、淀君はかたくなに拒否します。浪人たちの前にでると不届き者に危害を加えられる恐れがあるとか、危険な戦場に出るなどもってのほかという思考に囚われます。
●司馬さんはこれについても「彼女自身が江戸の人質にならぬということと同じ重量の重大さで秀頼の姿を戦士の前に曝させめ、奥に垂れ籠めておく、ということが重要であった。そのことを崩さねばならぬとしたら彼女はむしろ死を選ぶかもしれなかった。いや、選ぶだろうー」と述べている。
●大阪城の敗戦の要因は淀君の心のありようにあるというのは明白です。彼女はそのような人生しか送ってこなかったわけですから。秀頼の存在が生きがいだったのでしょう。母親の本能に忠実だったと思います。
●これでは政治的な駆け引きも戦争もできません。はなから負け戦であったことが容易にわかります。小説はこの他にも豊臣家衰退の要因に正室寧々を中心とした尾張衆と淀殿を中心とした近江衆の確執があったと示唆しています。
●秀吉が淀殿を側室にしたときから豊臣家の終わりの始まりだというとらえ方です。そこへ秀吉の晩年の情緒不安定さが重なり豊臣家分裂が加速したということですね。
●小説は作家の創作であって事実か否かはあいまいです。そこで私は歴史学者の笠谷和比古教授の「関ヶ原合戦と大坂の陣」吉川弘文館刊を読んでみました。
合戦に焦点をあてた本書では、淀殿や秀頼のことは深く触れられていません。
●ただ秀頼は大阪城の奥深くに籠っていたわけでなく、戦の前には前線を視察したり、兵を激励したという記述があります。最後の最後にも討って出る意思を示していますが周りが止めたようです。
●また最後の大阪夏の陣は豊臣方5万人対徳川方15万人の1対3の兵力差があった戦いで、明らかに西軍不利でした。ですが真田幸村、後藤基次、毛利勝長、木村重成、大野治長、治房らは獅子奮迅の戦いを挑み善戦むなしく討ち死にしています。戦国時代最後の大戦でした。
●おそらく彼らは豊臣方絶対不利な状況に陥りながらも自分たちの死に場所を求め、必死の戦闘心で戦い散ったのでしょう。司馬さんの言う淀殿と秀頼の頼りなさが敗因でしょうが、戦闘力は戦略の優劣には勝らないという現在のビジネス競争にも当てはまるのが教訓だと思います。
●淀君は大阪城で生涯三度目の落城を経験してこの世を去ります。こういう人はいませんね。不運なり。<完>
- 登録日時
- 2016/11/30(水) 09:08