【2016年12月の雑感➂】
▲プリンセチアの花。花言葉は「思いやり」です。
お見事!NHK大河ドラマ『真田丸』終わる
■今年の大河ドラマ「真田丸」が18日(日)で終わりました。あとは総集編で楽しむしかありません。録画して保存するつもりです。ブルーレイでは50GBのディスクが必要ですが。(地上波放送は25GBで180分まで収録可能)
●ネットでは真田丸に関する記事が散見されます。私にとって一番関心を惹いたのが以下の記事です。
エキサイトレビュー提供の
「真田丸」最終回「この世にいた証を何か残せたのか」「大事なのはいかに生きたかでございますゆえ」というタイトルの記事です。
●いつまで再生できるか分かりませんので、一番印象に残ったセリフを記載しておきます。
■皆に生きる希望を与えた信繁だったが、戦いに出向く前、内記(中原丈雄)には本音を吐露する。
信繁「わたしは わたしという男がこの世にいた証を何か残せたのか」
内記「ひとの真の値打ちというものは己が決めるものではございません」
信繁「誰が決める?」
内記「時でござる。戦国の世に義を貫き通し、徳川家康と渡り合った真田左衛門佐幸村は日の本一のつわ者として語り継がれるに違いありません」
信繁「どんな終わりを迎えても?」
内記「大事なのはいかに生きたかでございますゆえ」
●私にはインパクトのあるセリフでした。自分の生きた過去を振り返ると後悔が先に立ちますが、自分の生き方を肯定したい気持ちもあります。済んだことはやり直せないのですから後悔より反省をして残りの人生に活かすべきでしょう。
●真田信繁が死ぬ間際に思い浮かべるシーンが数秒流されました。やはり家族との思い出が中心でした。自分と同時代を生きた真田家の人々とのカットです。
それは一族を「真田丸」として航海をした船になぞらえているかのようです。
●私なら自分が育った家族よりも自分で創った家族のことを中心に思い出すでしょう。特に家内との花園だった時代、そして2人に息子たちとの触れ合いが多かった少年時代が中心になるだろうと思われます。今でも時々思い出していますので。
■ドラマ「真田丸」はまさに史実に基づいた三谷幸喜さんの創作劇です。歴史書では違う解釈もなされています。またテレビでは情報量に制限がありますから大坂の陣の激闘をくまなく描くことはなされていません。
●私は笠谷和比古教授の「関ヶ原合戦と大坂の陣」(吉川弘文館刊)と歴史、ミステリ-評論家の「真田信繁」(中公文庫)を読みました。やはり書籍の方が、圧倒的に情報量は多く想像力を掻き立ててくれます。
●興味を持たれた方はぜひ書籍を参照してください。やはり学びの本道は「本」です。それは情報量の多さと読みながら自分で考える(想像や推理)ことができるからです。テレビより本ですね。ただテレビは補完としては最適です。
●映像や図表は上手くまとめられている場合が多いのと視聴覚で同時に認識できますから理解はしやすいですね。但し、録画して繰り返し見ないとすぐに忘れてしまう可能性大です。(私の場合‐笑)
■大坂の陣の詳細は書籍に譲るとして、今回私が備忘録として書きたかったのは、以下のことです。
●冬の陣と夏の陣の期間。大河ドラマでは時間軸がよくわかりませんでした。冬の陣は旧暦の11月19日開戦。12月19日和議成立。1か月の戦いでした。夏の陣は4月26日から5月8日の約2週間と短いものでした。(旧暦と新暦ではやく1か月の時差があるので11月は12月、5月は梅雨入りのころか)
●戦争の規模と悲惨さをあらわす戦死者の数は。大坂方の死者18,000人。関ヶ原の合戦では東西両軍で8千人ほどなので激戦であったと思われます。しかし昭和の戦争と比べると大変な違いです。
●真田信繁の享年は49歳。織田信長と同い年ですね。大助は16歳でした。淀の方47歳。秀頼は23歳。同時代を生きた2人だったようです。ですがドラマのような関係であったかは疑問です。信繁は堺雅人のような美男ではなく、歯も抜け落ちた老人のようであったのは事実です。
●生き残った真田家の人々は総じて長生きしたようです。ドラマでも信繁が「生きよ」「生き抜け」というようなことを言っていました。信繁には多くの子女がいたようです。九度山での配流生活は14年です。34歳から48歳まで壮年期は子作りに励んだのかもしれません。(笑)酒好きだったとも書かれています。
●ドラマで活躍した架空の人物といわれる長澤まさみさん演ずる『きり』には実在の側室がモデルとして居ました。高梨内記(中原丈雄)の息女が信繁の側室で二女を設けたと記録にあるそうです。
●子供たちはいずれも無事生き延びたようですね。松岡茉優さん演ずる正室の大谷吉継の娘(竹林院)は信繁の死後34年後に没しています。
●兄の真田信之も長寿でした。明暦三年(1657年)92歳で隠居し、翌年万治元年93歳で没しました。徳川将軍も四代家綱の時代です。夏の陣から40年以上も長生きしました。奥さんの小松姫より長寿です。この間、徳川の大老酒井忠清との政治上の戦いがあったという物語も発表されています。
●信之、信繁の兄弟は犬伏の別れ(1,600年)以来、二度と直接会うことなく歴史に名を刻んだんですね。
●真田信繁の生き方が今も人気なのは滅びの美学に殉じたからでしょうか。九度山でくすぶっていた自分を引き出してくれた豊臣秀頼への恩義に最後まで忠義で応えたこと。徳川家康の調略にも乗らなかったこと。政治家より武将として生き抜いたことでしょうか。
●真田隊は大奮戦し全滅するまで戦い抜いたのは信繁のカリスマ性によるものだとされています。それだけ部下からの信頼が高く、人間性が評価されているからかもしれません。
●ですが学ぶとしたなら信繁の生き方を真似るのではなく、自分が自分の人生をこのように生きるのだと決めてそれにしたがって貫けたどうかでしょう。できれば目標を設定してそれを成し遂げる人生の方が良いと思います。<完>
- 登録日時
- 2016/12/22(木) 10:47