【2010年 1月のトピックス】
あれから15年 阪神大震災の想い出
●カリブ海の小国「ハイチ」の存在については無知でした。隣国のドミニカ共和国や近くのキューバについては、野球でその存在を認識していましたが。しかも西半球で最貧国というではありませんか。そんな国を大地震が襲いました。何という不運か、そんな思いでいっぱいです。
●テレビのニュースを見ながら、久しぶりに、記憶の中に押さえ込んでいた15年前のわが身で体験した阪神大震災を思い起こしました。新潟やインドネシア、四川の大地震の時は思い出そうとしなかったのですが…。
●15年前のあの日の出来事を記録したメモはどこかにあるはずですが、それを探してまでこの文章を書こうとは思いません。記憶に残っている事だけを書いてみようと思います。しかし、何らかの教訓や今後に役立つことは思い浮かびません。単なる個人的な想いと後悔を記すだけです。ご承知のうえ興味のある方はお読み下さい。
●当時、わたしはある家電量販店の大型店の店長をしていました。7階に事務所があり、そこに席がありましたので大地震の数日前に何度か小さな地震を体感していました。
●その年は正月から営業するので正月明けの3連休が終われば、店を連休することにしていました。正月からの出勤なので当時の管理課長と近くの生田神社に参拝に出かけました。そこでおみくじをひいたのですが「凶」が出たのです。あわてて引きなおしたのですが「末吉」でした。
●その幾日か後の恵比寿さんに、少し店から離れた柳原神社という所へ同じ課長と出かけました。店の事務所に飾ってあるものを返しに行って新しいものを買って帰るためです。実はそこでもおみくじを引いたのですが、今度は2人とも「凶」でした。
●とっても嫌な気分になったのを覚えています。このことはずっと黙っていたのですが、先日10数年ぶりにその課長と電話で話をする機会がありました。わたしがその話を持ち出したところ、相手は全く覚えておられませんでした。
●何か見えざる力が私に警告していたのでしょうか?しかし、そうだといってあの大地震が予想できたわけでもありませんから、あまり意味のないエピソードですが。ちなみにその後の初詣などで「凶」が出たことはありません。
●17日の明け方、カタカタという音で目が覚めかけました。途端に「ドーン」という振動と共に、宙返りをし、家が壊れたという感覚ではっきりと目が覚めました。上からものが落ちてくるので布団をかぶっていました。
●収まってから自分の部屋を出て、家族に声をかけましたが、一番しっかりしていたのは家内です。当時家族4人は別々の部屋で寝ていました。あとで聞いたのですが、地震と同時に家内は隣の部屋の下の息子に上に覆いかぶさったそうです。
●本能でしょうか、「母は強し」ですね。幸い私の家は岩盤の上にあり、大きな被害はありませんでした。家具や食器も無事でした。沢山あった本も落ちてきませんでした。家族の安否を確認した後は、店が気になります。当日から2連休か3連休のはずでした。
●警備員さんと連絡がつき、店が倒壊しかかっているとのことです。近隣に住む幹部と連絡を取り合って、神戸の中心地、三宮にある店に到着するのに普段は車で30分くらいのところが、3時間はかかりました。
●到着して一番驚いたのが、高架の上の阪急電車の線路が90度近くねじれて見えたことです。店は完全に倒壊していたわけではありませんが、中に入って目にしたのは、映画のポセイドンアドベンチャーのような世界です。
●それから3月の初めに会社から辞令を受けて違う部門に異動するまでの約45日間は長い日々でした。これを語ると長くなるので止めておきます。当時の従業員の方々や取引先の方々のご尽力や励ましを受けて、春の光が感じられる頃に、なんとか再建への第一歩を踏み出すことができました。
●一番印象に残っているのは、働いていた従業員全員の安否を確かめるのに1週間近くかかり、約500名全員の無事を確認した時の嬉しさです。その後6,434名の方が亡くなったことがわかりました。亡くなった方々のご冥福をお祈りいたしますが、昼間なら大惨事になっていただろうと思うと、私たちはまだ幸運だったのかもしれません。
●その時に携わっていただいた方々には何とお礼を言えばよいのか、いまだにその足らざるが気になるところです。当時の自分のリーダーシップの力不足を反省すると共に、みんな一生懸命に復興に尽くしてくれたことに感謝するのみです。
●個人的には、日々目にする風景や救急車のサイレンの音を聞きながら、人生ではじめて「こころがヒューヒュー泣いている」という経験をしました。自分がしっかりしなければという思いと、なんでこんなことになってしまったんだ、どうすればいいのかという不安もありました。
●堺屋太一さんの著書「歴史の使い方」によりますと、豊臣秀吉が中国大返しを行い、その後の弔い合戦を行なったのは45歳の時だということです。堺屋さんは他の武将と比較してその決断、スピード、体力に圧倒的に差があったと評価されています。明智光秀との違いの解釈も面白いです。
●同じ書で関が原の戦い時における徳川家康57歳と石田三成との比較も面白いですね。どちらがリーダーにふさわしいかはよくわかります。自分を戦国武将に喩えるのはおこがましいのですが、当時や7年後の会社の民事再生時をふりかえると、自分は光秀や三成タイプだったのではと思うのです。
秀吉や家康は、危機に際してもこころが泣くような事はなかったのではないでしょうか?
●震災当時私は47歳、それから7年後は54歳でした。ビジネスマンとして働き盛りの時に、決してポジティブな出来事に遭遇したわけではありません。しかしいずれも他からの力で試練を与えられたようです。その結果自分が成長したというより、後悔と反省することの方が多いですね。
●震災のあと個人的には、身の回りの物を整理して処分しました。モノに対する執着がなくなって、それから4年間、野菜づくりに没頭するようになりました。やりすぎて4年後に重い腰痛に襲われ止めました。体は何とか整体で治していただきました。
●世の中は、パソコンと携帯電話が普及しだしました。コンビニエンスストアも急成長して行きました。家電量販店ではヤマダ電機さんが、当時年商500億弱だったのが、1兆8,700億円強の売上高になりました。15年の歳月は様々な変化を生み出しています。
●神戸の街も建物はすっかり復興したようです。人口も元に戻ったようです。この15年で成長された方々も多いでしょう。自分の子供も含め、未来に向かって生き抜き、得意の分野で活躍して欲しいと思います。
●地元ではあの震災を忘れないようにとイベントが行なわれています。特に家族や親族を亡くされた方々にとっては忘れられない日だと思います。あらためて亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。
●私にとっては、またしばらく震災の想い出はこころの中に封じ込めることになるでしょう。正直あまり思い出したくないのです。体験というものが自分自身の未来にとって、あるいは周りの人々に何らかの貢献をしないものならば、それは語るほどのものではないと思うのです。<完>
- 登録日時
- 2010/01/16(土) 16:04